友人の佐々木さんが演劇をなさります。 以前、佐々木さんが脚本を書かれたテアトルヒューメの演劇「蛹のほね」を拝見していらい、すっかりファンになってしまいました。 観覧者からは「ストーリーが難解」と評されたらしく、たぶんそこには学生演劇にありがちな「曖昧さ」や「未熟さ」といった問題があったのでしょう。確かに観客にとってフレンドリーな作品ではありませんでした。 しかしそこで表現されていたのは、「無理に分かりやすく説明しようとしない」態度だったと思います。 大学生というのは就職をしたり結婚が現実的になったりと、否応なく現実に直面し、そこで出会う人たちに分かりもしない将来を語ることを余儀なくされる時期です。就職面接を受ければ誰だって「そんなのわからないよ!」と言いたくなると思いますし、親戚は将来のことについて根掘り葉掘り聞いてきます。 佐々木さんの作品は、そんな時期に真っ直ぐ向き合って、分からないことを適当にごまかさず、ちゃんと「わからない!」と言い、蛹のようにまだ不安定なものを肯定するとても真摯な演劇だったように思います。 さて、今作はどんな内容なのでしょう。1ファンとしてとても楽しみにしています。 文:木野允寛 群馬大学演劇部テアトルヒューメ2017年特別公演 あらすじ ある日ある丘ある木の下で 集まった人のストーリー 宇宙人のメッセージ 悪魔のささやき 自分の想い、あの子の言葉 さまざまな人々が生み出す枝葉はどのような木をつくるのか オムニバス形式で描かれる風景の答えはどこにあるのか 一年生から四年生まで全ての力をあわせた特別公演 どうぞ、お楽しみください テアトルヒューメのサイトはこちら 公演日時
3月18日(土) 13:00~/18:00~ 3月19日(日) 13:00~ 場所 群馬大学荒牧キャンパス構内 学生ホール チケット代 500円 ※開場は各開演の30分前となります ※公演時間は1時間40分を予定しております チケット等のお問い合わせは担当:玉川竜己(s15601037@gunma-u.ac.jp)まで 先日、岡本太郎現代美術賞展を観てきました。 なぜNOUMUでこの展示のことについて書くのかというと、NOUMUの表紙写真を担当してくださった福嶋幸平さんが入賞されているからです。 とはいえ、彼の作品についてだけ書くのも味気ないので展示全体について少し書こうと思います。 ところでこの賞の名前の由来である岡本太郎さんってどんな人なんでしょう。 「芸術は爆発だ!」という言葉や〈太陽の塔〉などが独り歩きして、日本でいちばん有名な作家と言っても過言ではないかもしれません。あの奇抜なキャラクターや作品の色使いなど、好き嫌いは別れるにせよ印象に残る作家だと思います。 彼が〈太陽の塔〉(1970)を制作したのは当時の日本の進歩史観、つまりその時の万博のテーマ「人類の進歩と調和」への反発だったようです。それ以前から彼は「対極主義」という主義を掲げて、初期の作品〈重工業〉(1949)では巨大な歯車と同じくらい巨大な長ネギを描いたりしています。 このような人間の理性中心主義に対する批判的な態度は彼がパリに留学していたころ、接していた人々の影響が大きいようで、モースやブルトン、バタイユと会い彼の立ち上げた「社会学研究会」や「アセファル」にも参加していたらしいです。(とだいたいの岡本太郎さんの研究書には書いてあるのですが、いつも引用されるのは彼自身の言葉ばかりなのが個人的には気になります。) 岡本太郎さんが留学していた1930年代のフランスは第一次大戦終戦から10年ほど経っていたとは言え、極めて凄惨な近代戦を初めて体験したことに対するショックと反動が強くあり、シュルレアリスムが無意識をテーマにしたように理性的な進歩史観への反発は当時の前衛と呼ばれた人たちの間の共通感情であったようです。 岡本太郎さんもその態度を引き継ぎ、日本に帰ってきてからも近代への批判的な作品を作り、太陽の塔では万博という進歩がテーマになった展示に(丹下健三的な)モダニズム的ではない、土着的な塔を打ち立てることに成功しました。 理性中心主義や進歩史観が未だに幅を効かせている現代日本にあって、彼の名前を冠する美術公募展があるということは意義深いと思いますし、彼の態度は(バタイユの影響を受けた人だからかもしないけど)NOUMUにも通じるところがあるかもしれません。 遠回りしてしまいましたが、そんな彼の名前が付けられた公募展が岡本太郎現代美術賞展です。 印象に残った作品について少しだけ。 記事のトップ写真に使わせてもったのは井原宏蕗さんという作家さんの作品です。写真だけではわかりにくいのですが、この動物の上に貼り付けられているブツブツはその動物の糞だそうです。そう聞いた途端、なんだか近づきたくなくなりますね。 題名はCyclingと言い、排泄物である糞をその持ち主に戻すことで「排泄」という一過性の行為を時を超えた存在にしたとのこと。 批評家の椹木野衣さんの審査評にも書いてありましたが、排泄物を最も忌み嫌う動物は人間(とくに大人)かもしれません。うさぎとか食べちゃうこともあるらしいし… 排泄物に限らず、不要なもの、下劣なもの、汚いものに画一的な態度をとることへの批判と受け取ると、とても好きな作品でした。 これは加藤真史さんという方の作品。題名はVacancy。 ちょっとテーマと表現の関係性についてはよくわからなかったのですが、ちょうどコンクリートブロックのサイズのような紙を積み重ねるように展示してあって、コラージュのようでした。 一枚一枚の色が微妙に違って風景がまるで崩れそうに見えるところ、チグハグに再構成されている様子が現実の脆さを表現しているようでした。(たぶん作家さんの意図とは全く異なった理解だと思いますが) これが福嶋さんの作品です!
題名は〈生の間〉で、「ある人物が最後に見た風景」を撮影したものとのこと。襖という仮の仕切りを使うことで生と死の曖昧な境界を表現したとのことでした。 確かに大きなお屋敷にある大きな襖の向こうってなんとなく恐いですよね。ドアだと頑丈なイメージがありますが、襖というのは向こうに人がいれば気配も感じますし。 ドアが「モンスターズ・インク」の世界のように別世界に通じると言われるとなんとなくわかりますが、襖だと別世界というよりは地続きという感じが強いですね。生と死は地続きなのかもしれません。 この作品、写真が襖に印刷してあるのですが、一見するとまるで水墨画のようなのです。 このような表現技法は彼が数年前から実験していて、過去には掛け軸のような作品を作っていたのでそれが収斂されているように感じました。 さて、ほんとうは他にも楽しい作品が沢山あったのですが、それはみなさんが実際に行って見つけていただいた方がいいでしょう。展示は川崎にある岡本太郎美術館で4月9日までです。 展示作品全体が、先に書いたような岡本太郎さんの姿勢を継いでいるとは言えないと思います。(そもそもそんな必要ないし) けれど実利的な作品はほとんどありませんでした。(その意味で最も非実利的だったのは福本歩さんの〈タオマーケット〉かもしれません。)なにかの役に立たないということ、進歩も退化もない世界で表現し続けること。そこにはきっと意味はないけど意味に似たなにかがあるのだと思います。 その意味でこの公募展は岡本太郎さんの意志を継いでいるのかもしれませんね。NOUMUが岡本太郎さんの言う「なんだこれは!」になれるかどうかはわかりませんが、太郎賞の入選作家さんたちがなんらかの形で岡本太郎さんの態度を引き受けるように、僕らもまた無意味のなかで意味のようなものを作り出したいな、と思っています。 ところで、なぜ人はこんな役に立たないことをするのでしょうね? 文:木野允寛 |