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編集開始!

2/11/2017

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雑誌を作ろうと思い立ってからはや一ヶ月半、修論の構想をどうしようかと怯えながら編集をしている木野です。

昨日は23時から4時くらいに僕の自宅で、いわゆる編集と呼ばれる作業に着手しはじめました。参考になりそうな雑誌を読みながら、この構成いいね、とかこのフォントみたいのがいいな、とかしながらイメージを固めていきます。

google driveでページの台割とよばれる、どのページにどんな内容を入れるかなども作り始め、印刷所を決め、スケジュールを逆算して、雑誌コードと定期刊行物コードを取得しようなど、だいぶ具体的になってきましたよ!

けど問題はまだまだ山積していて、まだ材料が揃っていないんですね。

というのも、僕がこの雑誌は一党独裁すると決めたので、全員と折衝しつつ、作品やエッセイの内容を詰めているのでとにかく足が遅い。

この問題も近いうちに取り組んで(今、米軍の組織管理の本とか読んでいるw)もう少し組織的に動けるようにしますけど、それはさておき。

デザインを気にしながら雑誌を見てみると、ほんとうに凝っていますね。もちろん連載など使い回しのフォーマットはあるのでしょうが、一枚一枚よく考えられている。これは雑誌が衰退するのも無理ないと思います。雑誌が高級品になるのも時間の問題でしょう。

もし僕がビジネスとしてNOUMUを展開するとしたら絶対に紙媒体は選ばなかったですね。

昨日の深夜、編集の人と作業をしていたら友人から突然電話がかかってきて「NOUMUを使って1500万儲けるとしたらどうする?」と言われました。たいへん支離滅裂ですが、僕の周りにはこういう訳のわからない電話をしてくる人間が少しいるのです。

そう考えるとほんとうに難しい。

出版系の会社はどうやって収益を得ているのでしょう。少部数で値段を上げて、必要な人は高いけれど買うとか、文庫などの形にしてとても安く売るとか…いずれにしても少ないパイの奪い合いです。

オンラインに目を向けると、AmazonUnlimitedなどが注目を集めていますね。

予想以上に売れすぎて、Unlimitedから作品が削除されたとかも話題になっていました。他にもビジネス系の書籍の出版会社に務めている友人が、すごい勢いで売れていると話していました。

そう考えると世の中に言われているような活字離れが起きているのではなく、活字(というこの言葉自体、古いですね)そのものが変容していると考えるべきでしょう。

こんな時代に紙に画像や文字を入れて世に送り出すことにどのような意味があるのだろう…とか少し考えてしまいます。

それは昨日、編集の人とも話したことです。つまりYouTubeのフォロワー数に比べたらどんな大手の雑誌でも読者数として敵わないという話です。

もちろん答えの一つは「とにかく僕がそうしたい」からなんですけど。

もう一つの理由はやっぱり物質と消費の循環に入りたいということですね。

この雑誌はどんなにそうでないと言い張っても趣味的だし、衒学的で、高級品でしょう。まだ値段は決まっていませんが、少なくともジャンプよりは高くなってしまう。A4フルカラーにするけど、ページ数は市販の雑誌より遥かに少ない。

有閑階級の読み物とは言わないけれど、そもそも本を買うということ自体、ある文化的な生活を前提にしています。(それに雑誌のテーマが芸術と思想だし…)少し前に芸能人の人が絵本を無料にして炎上していましたね。

彼の言いたいことは一理あると思うんですよ。

でもバタイユという人の言葉を借りれば、ダイヤモンドは本物でなければならないんです。つまりそれだけの犠牲(損失)を払うことでダイヤモンドが魅力を持つ。

これにはそれが物質であることと、消費される必要があります。

雑誌も同じようなところがあると思います。ある種の有罪性が必要だと思う。

同じくバタイユという人の言葉ですが、文学は悪らしいです。

親のスネを齧って、自立しない人間(たとえばボードレール)が社会に呪詛を投げかける。その構造がすでに有罪だと彼は考えるわけですね。僕もこの雑誌に同じ感覚を持っています。衒学的で役立たず。そんなものをこれから作ろうとしているのだから悪くないわけがない。

そこに奇跡的に価値が宿ったらいいな〜と思ってます。

最後にバタイユさんの言葉を引いておきましょう。

「文学とは、無垢のものではなく、もともと罪深いもので、ついには自分の正体を暴露せざるをえないものである。〔…〕文学とは、ついにふたたび見いだされた少年時代のことではなかろうか。ところで少年時代とは、もしそれがこの世界で支配的な立場に立つことがあるとして、その時もなお真理を宿してるものだろうか。」
山本功訳/ジョルジュ・バタイユ『文学と悪』


※まだまだ協力者を募集中です。こんな考え方ですが共鳴した方がいらっしゃったらお気軽にご連絡くださいね。


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